薄暗い朝。僅かに帯びた湿気は蒸し暑さよりも涼しい風が孕む中、憂鬱気味な心の中とは裏腹に心地よい朝を迎え、何時も通りの時間に起きて顔を洗っていた僕の前に、優希ちゃんはのそのそと現れた。
「お兄ちゃんおあよー……はふ」
彼女は案の定夜更かしをしたらしく、開け切らない瞼をしょぼしょぼと瞬かせて、可愛い欠伸を上げた。
「早く寝なさいっていったでしょう。子供が夜更かしなんてするからです」
「ほんはほと言ったって、見はいテレふぃがあったんだものふへふぁ……ふぅ」
「何喋ってるのか、解らないよ」
苦笑交じりに、目やにで汚れた顔を綺麗なタオルで拭いてやる。
「ういぃぃ……いいよぅ。自分で出来るもの〜」
「そう? ちゃんと顔洗って、目醒ましなさいね」
「あいぃ〜」
半分閉じた目で、彼女はコクリと頷く。返事だけは何時も良い。まあ、聞いているのかどうかは甚だ疑問なワケだが、細かい事はどうでもいい。
僕は朝食の献立を考えながら、キッチンに向かう。
ヨーグルトに旬のプルーンを混ぜ、夏レタスと合わせた簡単なサラダに、薄く切ったくるみ入りの食パンを軽く焼いたものをテーブルの上に並べた頃、彼女は相変わらずといった様子でのそのそとリビングに姿を見せた。
「おなか空いたー」
「ちゃんと目、醒ました?」
「あいー。まだほわほわしてるけど、だいじょびです」
シュタっと呼ぶには僅かに遅い速度で高々とあげられた右腕に苦笑しつつ、僕は彼女に席につくように促す。
「あ、ヨーグルトサラダー。ゆっき、これ好きなのー」
「いただきます」
「あう。い、いただきますっ」
感想を聞き流し、手を合わせた僕に、優希ちゃんは慌ててそれに倣う。
子供らしい乱雑さはあるが、意外と行儀がいいのは、手前味噌ながら両親の躾の良さを感じ取られる。
というか僕も僕の両親も、基本的に自分に甘いため、他人の目に厳しくされないように生きるという、言葉だけ取ればちょっとイヤな処世術のような生き方をポリシーにしている。
他人の目を気にしないで自分に甘くする分には簡単だが、他人から注視されないように生きるというのは酷く難しい。ただそれは、言い返れば己の責任や義務を噛み締め、他人に後ろ指を刺されないように生きるという事だ。
僕自身が妙な性嗜好を持っていても、その欲求を避けようとするのは、斯様な生き方をモットーとしているというのも多分にあるのだろう。
一つ足元を誤れば犯罪者に堕しかねない自分を誠実に育ててくれた両親には、確かに感謝していた。
「お兄ちゃん、これおいしいよ」
「そう」
まあ、こんな年の離れた妹を押し付けられるまでは、の話だが。
目が醒めたのか、はっきりした表情になってきた彼女が、不意に咳き込んだ。
食器がガシャリと音を立ててテーブルの上から転がり落ち、フローリングの上に白い染みが浮かぶ。
「どうした!?」
「けほっけほっ……えぅ〜」
見ると、鼻からヨーグルトを垂れ流している。どうやら慌てて食べたせいで気管に入り、咽たらしかった。
布巾で鼻を拭ってやり、水を飲ませる。
「急いで食べるからだよ。慌てなくてもなくならないから、ゆっくりね」
「あい〜」
優希ちゃんのヨーグルトに塗れた顔と、咳き込んで紅潮した顔が妙に艶かしく映る。
「えへへ。ありがと、お兄ちゃん」
「顔、洗面所で洗ってきなさい」
「あーい。いてきまーす」
椅子を降り、テコテコと洗面所へ駆けていく彼女を視線の端に寄せ、乱れた食器を片付け、テーブルを拭く。床に零れたヨーグルトをキッチンペーパーで拭い捨てた頃、テコテコと音を立て、優希ちゃんが戻ってきた。
「ただいまー」
「おかえり」
「あいやっ。ゆっきのヨーグルトが……ないっ」
「ああ。汚れた分は片付けたよ。僕のを食べていいから」
視線を丸くして潤んでいた瞳が、すぐにほがらかな表情に戻る。
「えへへ。ありがとー。お兄ちゃん、大好きー」
「はいはい」
都合何度目か数えるのもイヤになるくらいの言葉を適当に聞き流し、僕は彼女の頭を撫でる。
「ゆっくり食べなさいね。それ零したら、次は無しだよ」
「あう。き、気をつけるよぅ」
「そうしなさい」
クスクス笑いながら、僕は食器をシンクに沈める。テーブルにはまだ彼女の分が残っているが、昼食後にまとめて洗うので問題はない。
その足で洗面所に向い、洗濯機の前に積まれた洗濯物を片付ける。
夏場は他の季節と比べ、どうしても汗を掻いたり夕立が多かったりして着替える機会が増えるから、汚れ物が溜まる前にマメに洗うに限る。独り暮しが長かったせいか、家事の類が苦痛にならないのは幸いだろうか。
とはいえ、二人分しかない衣服を洗うのに、三十分も掛からない。
そうこうしているうちに、彼女が洗面所までやってきた。
「お兄ちゃんごちそーさまー。ぜんぶ食べたよー」
「はい、お粗末様。お昼は何がいい?」
「えー。まだ早いよう」
ケラケラ笑う彼女を前に、僕は昼食の献立を考えていた。
「そういえば優希ちゃん」
「あいー?」
リビングでテレビを見ながら、生返事をする優希ちゃんは、少し逡巡するような様子を見せたあと、ブラウン管を名残惜しそうに目端に留めながらも、こちらに視線を向けた。
「宿題、ちゃんとやってる?」
「う、うぃっ」
「……何、その素っ頓狂な返事は」
「や、やってる……よ?」
完全に目が泳いでいる。
「今すぐ、宿題持ってきなさい」
「はぅぃー」
気の抜けたイントネーションを吐き、彼女はトボトボと自分の部屋に向かった。
そういえば、僕がこの家に戻ってきて以来、ついぞ彼女が机に向かっているシーンなど見た事がなかった。両親から信頼して預けられた以上、それに背くワケにもいくまい。
数分して、如何にもイヤそうな表情でノートやらドリルやらプリントやらを構えた彼女が戻ってきた。
「じゃあ、お昼までは勉強ね。今からだと……丁度一時間くらいか」
「ふ、ふえっ。もうちょっと、まかんないかなっ?」
「まかりません。で、何処までやったの?」
「……ちょこっとなの」
「こまめにやらないと、後で困るのは優希ちゃんだよ」
「あぅぅ。でも、でも、ベンキョーより、お兄ちゃんと遊ぶ方がじゅーよーだものっ」
「勉強も重要です。解らないところは手伝ってあげるから、キリキリやる」
「うぃー」
あからさまなほど消沈した声に笑いを堪えつつ、適当な勉強机を探す。
「うーん。卓袱台無かったかなあ」
「ちゃぶ台てなにー?」
「知らない? 小さい机。脚が短くて、折り畳みが出来るようなヤツ」
厳密には少し言葉が足りない説明だが、そう的外れでもないだろう。
自分の言葉と言い訳に得心しつつ、周囲をきょろきょろと見渡してみるが、見当たらない。
「無いなあ。物置にでも仕舞ったかな」
「小さいつくえなら、お兄ちゃんのへやにあったと思うよー」
ふと、優希ちゃんが僕の呟きに応えてみせた。
確かに小さな机はあるが、それは厳密には卓袱台ではなく、普通はリビングなどに置く、テーブルトップがガラスで脚が低いだけの飾り机だ。
というか――
「――何で知ってるの?」
「えへへ」
いや、えへへでなく。
「まあいいか。じゃあ、僕の部屋でしようか。先に行ってなさい。僕は飲み物持ってくるから」
「あーい」
パタパタと階段を駆け上がる彼女の足音を耳に残し、冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶の入ったボトルと氷を入れたコップを二つお盆に乗せ、僕は二階にある自分の部屋に向かう。
部屋のドアを開けようとすると、優希ちゃんが待ち構えていたようにそのドアを開けてくれた。
「ありがとう」
「えへへ。どーいたしましてー」
何が嬉しいのか、ニコニコと愛想の良いはにかんだ笑顔を浮かべながら、彼女はガラス机の前にちょこんと正座して見せる。
お茶をコップに注ぐ頃、彼女は握りの部分がやけに丸いシャープペンシルを握り、さっそく目の前の教材に取りかかっていた。見れば黙々とドリルの解答欄を埋めている。ぱっと見たところ多少のケアレスミスはあるものの、適当に書いてるようには見えない。
勉強が嫌いなだけであって、頭が悪いワケではないのだろうと、ひどく感心した。
午後は何か、彼女が喜ぶ事をしてあげるのもいいかも知れない。
優希ちゃんの真剣な横顔を見て、僕はそう思った。
「だるー」
「これ、だらしない」
ガラス机に顔を押し付け、両手両足を投げ出している。
最初の十分ほどで、あっという間にこうなった。先程受けた感心など、当の昔にその評価は限りなくゼロに近くなったのは云うまでもない。
「まだ十分ちょっとしか経ってないよ」
「うぇぇ〜」
「十分くらいで投げ出すなんて、学校で、ちゃんと勉強してるの?」
「それなりに〜」
何処でそういう云い回しを憶えたのだろうか、全く。
「お昼までまだ四十分以上あるんだから、それまでは頑張る。はい」
「もーあきたー。めんどくさーい」
机に突っ伏したまま、口を尖らせての抗議行動を僕が受け入れる筈もない。
「そうか。残念だな。優希ちゃんが真面目に宿題するなら、今日の午後は一緒に遊んであげようと思ってたのに」
「え」
「でも、勉強したくないのなら、しょうがないね。今日はもう、止めにしよう」
「え、や。あ、あう。やるっ。やるよっ。ゆっき、がんばるものっ」
ガバと身体を跳ね上げて、彼女は一心不乱と云った様子で再び机に向かった。
勝った。
と思った。