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「お兄ちゃん。どうしたの? おなかでもいたいの?」

 少女が僕の顔を、下から覗き込む。
 真夏の暑い日。ちょっとした理由で外へと足を運ばなければいけない理由が出来た僕は、どうせなら少しでも涼を求めようと、近所の川に来た。
 掛かる橋の上、涼しい風の吹く中、川のせせらぎを見ているうち、ふと、己の異常性癖を問い質すように自問してしまっていたおかしな様子を、傍らに居た彼女に見透かされたらしい。

 蒸し暑い空気がどんよりと肌を焼く中、しゃわしゃわと蝉が鳴く。

 彼女は薄手のサマードレスのような黄色いワンピースと、大きなリボンを揺らしながら、僕の顔をじっと見上げている。
 細い髪の毛のせいか、生え際が薄っすらとした茶に染まっている頭の天辺が、僕の腰くらいまでしかない。
 見たところ、よくても小学校の低学年。下手をすれば幼稚園児にも見える。ただ、幼いながらも知性を感じさせる顔付きは、ともすれば大人びた表情さえ湛えていた。
 背格好や容姿だけでは何とも年齢が読み難い、奇妙なまでに整った顔を持つ。

 瀬川優希。

 彼女こそ僕の妹であり、現在の僕を苦しめている元凶そのものである――小悪魔だ。

「いや、ああ。そうじゃないよ。大丈夫」

「でも、あぶないよ。あのね、橋から体をのりだしちゃ、だめなんだよ」

 至極子供っぽい身振り手振りを交え、彼女は、ぷぅ、と頬を膨らませる。

「大人だから大丈夫だよ。子供じゃないんだから」

「むー。変なの」

 怒らせたかと思いきや、彼女は身をひるがえし、くすっと微笑んで見せた。

「ゆっきね。おなかがいたくなったら、トイレの神さまにおねがいするんだよー」

「ああ、そう」

 って、そんな話はどうでもいい。

「優希ちゃん、それはいいから。遊びたいなら、遊んできなさい。僕はここに居るから。それとも、もう帰る?」

 そう云い、河辺リに指を伸ばす。
 指の先には彼女と同じ年頃の少年少女達が仲睦まじい様子で、空と川面から照り返す光の双方を受け、眩しそうに笑いあっていた。
 しかし彼女は、そんな同世代には目も暮れず、こちらに両手を伸ばしてきた。

「えへへ。ゆっき、お兄ちゃんとあそびたいなー」

 サマードレスの脇から、チラリと乳首が覗く。
 ピンク色の、まだ色素の定着していない、生まれたての赤子のようなそれに、僕は……反応してしまった。
 ああ、駄目だ。こんな無邪気な少女に欲情するなんて、僕は本当にクズだ。
 いきり立ったソレを覚られることなく鎮めようと、僕は彼女から視線を逸らし、水面に目を向ける。

「また今度ね」

「ぶー。せっかく、ぎゃくナンしてるのにー」

 何処で覚えたんだ、そんな言葉。

「とにかく。友達と遊んで来なさいって。ホラ」

 陽が高いわけではないが、周囲が暗いわけでもない。
 だがそれは季節が夏だからであって、時間から云えば、そろそろ夕方だ。
 そんな理由もあり、彼女が「お外にあそびに行きたいの!」と駄々を捏ねるものだから、僕は彼女についてくるしかなかった。



 そもそもの発端は、気紛れでふと帰郷した事だ。

 児童性愛の性癖により悩み抜いた挙句、一時は自殺まで考えたが、何とかそれに対処しようと思い留まり、悪癖がこれ以上ネガティブな方向に流れるのを嫌い、高校進学を機会に家を出る決意をした。

 僕が進学を決めたのは、地方の山奥の辺鄙なところにある大学の付属高校で、地方者のために学生寮が完備された学び舎だ。
 成績さえ良ければそのままエスカレーター式に大学への進学も可能で、売店なども敷地内に過不足無くあり、その気になれば卒業まで、完全に周囲と遮断された生活を送られるという、僕にとっては願ってもない環境だった。

 年端も行かない少女を見て悶々と過ごすくらいなら、そんな事が気にならない所で過ごせばいい。僕はそう考えて、実行に移したわけだ。

 幸か不幸か両親は、提案した僕自身ですら呆れるほどの放任主義で、学費と仕送りだけはきっちり送ってくれると約束しただけで、その後の僕の生活には何ら関心を持ってはいないようだった。
 それどころかむしろ、「また新婚生活に戻れるわ」と云われんばかりの態度で、在学中、時折思い出したかのように電話で連絡してみても、「帰ってこないの?」とすら聞いてこない。正直、寂しさよりも、呆れが強かったのを良く憶えている。

 ただ、僕自身は他人の干渉を受ける事が好きではなかったから、こうした生活には何の不足もなかった。
 そのまま何事もなく三年を過ごし、付属大学へのエスカレーター進学もあっさり決まり、僕はおよそ六年以上もの間、人里離れた学び舎で平穏な生活を続けていた。

  卒業後の就職先の内定も、在学四年目早々にしてすでに修めた単位にも余裕があり、ほぼ来年の生活が決まったも同然で、あとは卒業を待つだけとなった今夏。
 再び故郷に戻ってくるのであれば、機会は今しかないと一念発起して帰郷してみれば、何をとち狂ったのか――

「お兄ちゃん? ゆっきの? なんで?」

 ――僕には妹が出来ていた。
 きょとんとした顔で僕を見上げたその表情を忘れる事が出来ない。
 ただ、「何で?」と聞きたいのは僕も同じだった。

 両親を問い詰めたところ、僕が高校進学を機会に家を出ると決めた半年程前に“仕込んでいた”らしい。
 脱力しつつも理由を問い質してみると、母親はしれっとした顔で、「だって、お兄ちゃんが家を出たら、お母さんとお父さん、寂しくなるかもしれないじゃない」という事だった。
 父親は父親で、言い訳すらしない。
 一人息子がたまに連絡をしてみても一向に寂しがらなかったり、六年以上前の別れ際、少し太ったように見えていた母親が、実は妊娠していたなんて、誰が判るだろう。
 何故妹が生まれたと電話で教えてくれなかったのかと尋ねてみれば、「驚かせようと思って」と、これまた呆れた返答が返ってきたのは、もはや語る必要もない。

 ああ、驚いたとも!

 そんな理由で僕には、軽く二回り近く年齢が離れている妹が出来てしまったワケだ。
 運が良いのか悪いのか、「卒業決まったのなら暇なんでしょ」と、両親はうん年ぶりに会う我が子との再会には全く興味がないとばかりに、二人連れ立って旅行に出かけてしまった。

 どうやら僕の両親は、放任主義というよりも、根本的に何処かがズレているらしいと、実に二十年以上たった今、やっと気がついた。



「どうして友達と遊ぶのが嫌なの。ホラ、友達も呼んでるよ。それとも友達の事、嫌い? 喧嘩でもしてる?」

「うぅん。ちがうよ」

 少女はふるふると小さく首を振る。
 そうしながらも視線をこちらから反らさないのが、実に子供らしくて可愛らしい。

「じゃあ、どうして?」

「だってゆっき、お兄ちゃんとあそびたいんだものー」

 そういって、にんまりと可愛らしい唇の端を持ち上げる。
 だが、僕にとっては天使の笑みであると同時に、悪魔の誘惑でもある。

 そう。家に帰れば、この無邪気で愛らしい少女と、たった二人きりなのだ。



 正直な話、人里を避けるような隠遁生活を続けていた事が災いしたのか、僕はむしろ病状が悪化してしまったらしく、毎日が理性との戦いと云っても過言ではない生活を強いられている。
 何せ彼女は、僕が云うのも何だが、かなりの美形だ。
 両親も僕も平凡な顔付きだと思ってはいたが、決して不細工ではない。
 ただ彼女は、両親の平凡さを受け継いだ僕とは違い、明らかに両親の美点だけを受け継いで生まれてきたかのように整った顔立ちをしていた。
 それだけに僕の葛藤は半端なものではない。

 洗濯をすれば彼女の下着が目に付く。
 風呂に誘われる。
 風呂上りに裸で(僕の目の前を)うろつく。
 二人きりだから、朝起きて夜寝ている最中までも、始終同じ場所に居る。

 それは外出するときも同じで、しかも今は夏という季節もあってか、外でも薄着だから、むしろ家の中に居るときよりも激しい欲望に襲われる。
 何とか理性を抑えられているのは、彼女が僕の好みに合致するため、他の少女が目に入らないという事実と、彼女と僕が実の兄妹だと云う二つの事実の上でなりたっている、か細いジレンマの上でだった。
 ただ、カミソリの刃の上に立っているような、そんなギリギリのジレンマが逆に幸いしていたのも、また事実だ。
 ただでさえ人道に反した性癖を持っているのに、そこに近親相姦まで加わってしまえば、それは――犯罪者以外の何者でもないじゃないかという思いが、僕を今一歩のところで踏み止まらせている。



 だから僕は、彼女にどれだけ慕われているような素振りを受けても、表面上は無闇になつかれぬよう他人として接し、冷たくあしらう事しか出来なかった。

「遊ばない」

 というよりも、遊ぶと(僕が)何をするか判らない。考えただけでイヤになる。

「ちぇっ。つまんないのー」

 彼女は唇を尖らせて、ぷう、と頬を膨らませた。僕に邪険に扱われているとは、まるで思っていないらしい。
 ……ひょっとして、馬鹿にされてるんだろうかと、妙な疑心暗鬼にすら囚われる。

「いいから。遊ばないなら、もう帰るよ。ご飯も作らないといけないし」

 逸らしていた視線を向き直し、きつく云い聞かせる。

「やだー。まだ明るいもんー」

「すぐに暗くなるよ。帰れるの?」

「ゆっき、一人ででも、おうちかえれるもん! しっつれいだよぅ!」

「そりゃ悪ぅござんしたね」

 へえへえと、適当に相槌を打つ。



 帰郷早々、川に落ち、半裸でずぶ濡れ状態のまま、帰る家の方向が判らずにわんわん泣いていた少女が――優希だった。

 身も知らぬ(自分好みの)少女の恥態に僅かばかり反応する愚息と彼女を宥めすかし、交番まで届けて連絡先を聞いてみれば、僕の両親が駆けつけて来たなんて衝撃的な出会いを、彼女はとんと忘れてしまったらしい。
 実際、半裸の彼女を見て衝動が抑えるので精一杯だった僕はかなり挙動不審で、両親が到着するまでの十数分、ずいぶんと辛い思いをした。

 ……まあ、到着してからも、実の息子の顔をすっかり忘れていた両親のせいで、その後更に十数分もの間、辛い思いをするはめになったのは、云うまでもない。



 子供の持つ記憶能力の余りもの都合の良さに感じた眩暈と辟易した思いを頭の隅へと追いやり、ふと視線を落すと、彼女はどういうわけか、両手で顔を覆っていた。
 僕の顔に向けられていた上向きの視線が、じっと正面に向けられている。

「ん、どうしたの?」

「やだ、お兄ちゃん。変なとこ、ふくらんでるよぅー」

 頬に手をあて、彼女は顔を赤らめている。

「あ」

 出会いのシーンを思い出したときに、余計な事まで思い出し、すっかりテント状態になったそれを、彼女は頬を赤く染めて魅入っていた。
 それがどういうものかを知っているのかそうではないのか問い質すまでもない。ただ僕は、自分の恥を隠すので精一杯で、とにかくその場を取り繕うと懸命に前を押さえた。

「あ、いや。と、とにかく! 遊ばないんだったら、もう帰るよ」

「あ。お兄ちゃん――」

 彼女が呼び止めるのも構わず、僕は橋から離れた。
 数秒も経たぬうち、彼女を置き去りにしようとしていた自分に気付き、はたと振り返ると、彼女は少し不機嫌そうな表情で、僕の後ろをついてきていた。
 ほっと胸を撫で下ろし、歩幅を小さくする。彼女はてこてこと妙な足音を立てて駆け寄ると、はっし、と僕のズボンの裾を掴み――

「むうー」

 ――と奇声をあげ、実に不機嫌極まりない様子で頬を膨らませたまま、恨めしい視線を僕に向けたままで歩く。
 正直、実に歩き辛い。

「夕ご飯、何食べたい?」

 怒っている顔も、それはそれでコケティッシュなのだが、何時も姦しい少女が押し黙っているのに堪えかね、僕は口を開いた。
 途端、驚くほど素早い返答が返ってきた。

「カレーっ!」

 彼女はそう云うとすっくと片腕を大きくあげ、視線を僕に向けて殊更に主張する。

「ま、またカレー? 昨日も一昨日も食べたじゃない」

「えー。違うよぅ。昨日は二日目カレーで、その前は出来たてカレーだよー。三日目カレーはおいしいんだよぅ? おふくろの手作りの味なんだよぅ?」

 だから、何処でそんな言葉を覚えてくるんだか。
 大体、一日目だろうが二日目だろうが三日目だろうが、僕の作るカレーは僕の作るカレー以外の何者でもないです。げんなりです。

「せめて、カレーうどんにしない?」

「やだ。お兄ちゃん、さっき、ゆっきとあそんでくれなかったから、だめ。ぜーったい、カレーっ!」

 誰に似たのやら、彼女はずいぶんと頑固な様子で、ズボンに皺がよるほどに両手に力を込め、ぶんぶんと揺らしながら懸命に抗議する。

「わ、わかったから。揺らさないの。揺らさない」

「ゆっきは、カレーの上に、お兄ちゃんの手作りチーズハンバーグをよーきゅーする! このよーきゅーは、お兄ちゃんがうんというまでつづけるのー!」

 ハンバーグを今から作ろうとすると、結構面倒臭い。
 出来合い物で済ませても構わないんだけれど、彼女がこうしてごねる以上、恐らく、そう妥協して誤魔化そうとしても通じないと思った僕は、代案要求を彼女につきつけた。

「……ハンバーグじゃなくて、目玉焼きにしない?」

「それものせるっ!」

 墓穴を掘ってしまった。
 キラキラと目を輝かせる彼女に逆らえず、僕は左足にまとわりつく感触もそのままに財布の中身を調べつつ、渋々、文字通りに重い足取りを商店街へと向けた。



 そんなこんなで買い物を済ませ、夕食の準備に入る。
 とは云え、カレー種は三日前から食い続けているモノがまだあるので、スープとカレー粉を僅かに足す程度で済む。
 二人分とはいえ大人の僕と子供一人分だから、手鍋一杯もあれば、量は事足りる。
 だが、ハンバーグを要求されてしまったので、どちらかというとこちらが調理のメインだ。
 タマネギを炒ったところに小麦粉を混ぜいれ、冷まし、牛肉、豚肉、香辛料を入れ、程好く、根気良く混ぜ合わせる。
 照りが入ったところで、しばし冷蔵庫へ。肉が良く冷えた頃に取り出し、整形に入る。
 両手で素早くパテを整形し、ある程度形がまとまったところで、パテの中に熱を加えると溶けるタイプのチーズを入れ、最終整形を施し、焼きに入る。
 今時珍しい鉄のフライパンをじっくり熱し、油を薄く投入。静かに油をなじませ、少し煙が昇ったところで一度濡れ布巾の上でフライパンを冷まし、再び火口に乗せ、パテを投入。
 じぅーと油の溶ける音がして、良い匂いがキッチン全体に広がっていくと共に、今の今までリビングでテレビ番組に夢中だった彼女が、にわかに騒ぎ出す。

「いいにおーい」

 自分のミスを後悔しながら、僕は換気扇を回す。
 だが時すでに遅く、キッチンを越え、隣接するリビングへと抜けた香ばしい香りが、彼女の食欲中枢をずいぶんと刺激したらしい。

「おにく、うまいぞ、ハンバーグぅー♪」

 優希が喜色満面といった表情を浮かべ、てこてことキッチンにまで入り込み、僕の後ろではしゃぎだす。げんなりとした顔付きを出来るだけ抑え、僕は努めて厳しく眉を吊り上げ、彼女を諭した。

「料理を作ってるときは危ないから、キッチンに入って来ちゃ駄目だって云ってるでしょ。おとなしく、リビングで待っていなさい」

「カレぇー、辛いや、めだまやきぃー♪」

 ……聞いちゃいない。

「優希ちゃん。いい加減にしないと、本当に怒るよ?」

「ふ、ふぇ。ご、ごめんなさいっ」

 彼女はビクリと全身を震わせた後肩を落とし、とぼとぼとキッチンを後にする。
 何時もこう聞き分けが良ければ楽なんだけれど、これで済めば僕も困らないわけだ。

「まだかなー。まだかなー。ごはんまだかなー♪ おなか空いたなー。ゆっき、ぺっこぺっこだなー♪」

 ……うるさい。気が散る。
 リビングで良く解らない歌を歌い出した彼女に、思わず溜息が出る。
 僕は自炊歴が長いので料理自体はまるで苦にもならないのだが、とにかく集中してしまう性質なので、気を散らされるのが苦手なのだ。
 元々、余り他人と関わるのは好きでもないし、そんな人間が多感な時期の大半を山奥で過ごした事も関係しているのかも知れない。何せ、授業時間よりも寮に居る時間の方が圧倒的に長かったくらいだ。
 決して人付き合いが悪いワケではない(そうでなければ、今頃妹を放り出して寮に戻っている)が、兎角、自分だけの時間を好む性質だったためか、一人になると決めたら友人知人の類から誘いを受けるでもなく、何時間でもぼうっと過ごす事が出来た。
 ある友人からは、「お前は余りにもぼうっとしているので、同じ場所に居る事すら解らない時が間々ある」と云われた事がある。実際、影が薄いのかもしれない。だがそれは、僕にとって何ら不都合な事ではなかった。

 しかしこの小悪魔はとにかく姦しく、僕の目につかない場所にいるときも、常にその存在が消える事がない。
 目に見えなければ声が聞こえてくるし、声がなければ目につく場所に居る。
 食事をしているその僅かな間ですら、とにかく何かと口を開いては、テーブルを汚す。
 とはいえ、そこは子供。好きな食べ物でも用意してあげれば、食べるのに夢中になり、さしもの小悪魔も僅かばかりの沈黙を尊んでくれる。
 日に三度訪れる時間の中の、更に僅かな瞬間だけが、僕が気を抜ける貴重な時間となる。
 それ以外の時間は基本的に、終始、生活の中に気が休まる暇というものが殆どないのは、云うまでもない。

「優希ちゃん。ご飯食べたらお風呂入りなさいね」

「んっ」

 彼女はサジを加えたまま、目線だけこちらに向けて、こくっと頭を下げて肯定する。
 彼女指定の好物だからか、何時もよりもいっそう静かに、一心不乱に食しているようだ。
 その可愛いらしい仕草に、少しドキリとするが、僕はすぐに目を逸らす。

「ぷぅ、ごちそーさまでした」

「はいはい。食器は僕が運ぶから、そのままにしておいてね」

「あーい。……お兄ちゃん、お兄ちゃん」

 最初の日からそうだけど、僕は努めて彼女と視線を合わせないようにしていた。下手に視線を合わせて意識してしまうと、何をするか自分でも怖かったからだ。
 そんな僕の心情を知る由もなく、彼女はまた――

「何?」

「おふろ、いっしょに入ろー」

 ――などと無邪気に笑う。
 勘弁してください。
 都合何十回目になるのかも数え忘れた説教と、泣き出した彼女へのフォローに辟易しつつ、悶々とした時間を過ごす。
 何せ、僕好みの美少女がすぐ傍で風呂に入っているのだ。
 誘われても断ってしまう、自分のモラルの高さが恨めしい。

「一緒に入ろうだなんて、優希ちゃんは赤ちゃんみたいだね」

「ゆ、ゆっきは、赤ちゃんじゃないものっ」

「じゃあ、一人で入ってきなさい」

「う〜。ううう〜。う〜。お兄ちゃん、いじわるだっ」

「はいはい。何でもいいから、とっとと入る。はい、駆け足」

「おにーちゃんのバカー! アホー! おたんちーん! おにーちゃんなんか……おにーちゃんなんか、ゆっき、大きらいだもんー!」

 半ベソで悪態をつきながらも、彼女はバスルームへと駆け出していった。分が悪いと見ればすぐに引き下がる少し歪んだ素直さが可愛らしい。
 乱雑としたテーブルの上を片付け、洗い物を手早く済ませ、明日の献立を考える……って、主婦か、僕は。
 とはいえ、両親が不在である以上、自炊しないワケにはいかない。育ち盛りの妹に出来合いモノを食べさせるような真似はしたくなかったから。
 明日は何にしようかと考えているうち、テーブル上の醤油入れの中身が少ない事に気付く。
 キッチンへ向かい、醤油瓶を探すも、そちらは見事なまでに空だった。
 最近は洋食が多かったせいか、切れている事をすっかり忘れていたようだ。
 ふと時計に目をやる。時間はまだ宵の口で、商店街の雑貨屋なら多分空いている時間だった。すぐに買いに行く必要もなかったのだが、バスルームから洩れる彼女の声に居心地の悪さを感じた僕は、着の身着のままで外に出た。

 夜道に吹く風は生暖かく、冷房に頼るほどでもないが、心地良いものではなかった。自然、涼を求めるかの如く、僕の足は河辺に向かっていた。
 リーンリーンと虫の鳴く音と、さらさらと流れる水の音が土手の上まで響く。
 田舎と呼ぶのも、都会と呼ぶのも中途半端な静けさを残す故郷は、六年間余りの静かな生活と、何ら変わる由が無かった。
 ふわりと川沿いから吹きあがる風は冷たく、心地よい。
 土手を下り、河辺に腰を下ろす。
 しばし目的と共に喧騒を忘れ涼んでいると、突然上から声があがった。

「あ、お兄ちゃん、みつけたー!」

「……え?」

 見ると河原の上に優希が、でん、と構えていた。
 愛らしいピンク色のパジャマ姿で、頭には母親の真似なのか、湯冷めを気にしているのか、乱雑にタオルを巻いている。

「おふろから上がったらいないしー! もうっ」

 彼女はザザザと音を立て、河原を滑り……転んだ。

「うあっ」

「あ、危ないっ」

 咄嗟に飛び出し、両手で深く抱き抱える。

「何やってんの。危ないだろ、全く。ああ、もう。こんなに汚して」

 湯上りで濡れた彼女の肌には、ころんだ折りについたと思われる土草がまとわりついていた。
 暗がりの中、見える範囲で軽く払うと、彼女はポロポロと大粒の涙を零した。

「ゆっき、わるくないもん! わるいのは全部お兄ちゃんだもん!」

 少女は僕の手の中で、何やらワアワアと喚く。
 確かに、何も声を掛けずに出てきたのは拙かったが、大人しく待っていればよいだろうに。
 とはいえ、泣かせてしまった罪悪感で胸がチクリと僅かに痛み、僕は頭を下げた。

「ごめんごめん。黙って出てきたのは悪かった。ちょっとお醤油買いに出ただけだよ」

「む〜」

「ごめん」

 もう一度頭を下げ、許しを乞う。

「むむ〜。ゆ、ゆるしてあげるもの」

「本当?」

「う、うん……あ……やん」

「こ、こら。変な声出すな」

「だって、お兄ちゃん、ゆっきのおっぱい……さわってるんだもん」

 ふと視線を手元に向けると、彼女を抱き止めた時に回していた腕が、小さな胸を突起の上から握りつぶしていた。

「え、うわ」

 ぽい、と放り出すように少女から手を離す。
 途端、彼女はもんどりうって、そのまま後ろに向かい、コロリと引っくり返った。

「あいたっ。うわ、お兄ちゃん、ひどいよっ」

「ご、ごめん」

 申し開きの程もない。
 まだ膨らみかけの彼女の胸の柔らかさを意識すると、ますます意識してしまので、僕はとにかく平身低頭を続ける。

「ゆっき、もうおヨメさんにいけないかも。ふえぇぇぇん」

「そんなワケあるかっ。嘘泣きは止めなさい」

「うそ泣きじゃないもん! ほんと泣きだもん! ふえぇぇぇん」

「あー、もう。僕が悪かったから、とりあえず泣き止んで。ね?」

 そう諦めたように溜息を吐くと、彼女はニンマリと意地の悪い笑みを浮かべた――ように見えた。

「……アイス」

「え?」

「ゆっき、アイスが食べたいなあ。アイスアイスアイスー」

「え、ええ?」

「買ってくれないと、また泣いちゃうかも」

「……わかったよ。好きなの買ってあげるから」

「うふふ。ありがとー」

 彼女は鳴いたカラスが何とやら、途端にニコニコと笑みを浮かべ始めた。
 泥だらけの顔も気にしないといった様子で、くるりくるりと河原の上で跳ねまわる。
 ……ひょっとしても何も、謀られたのだろうか。

 何だかげんなりとした気分だったけれど、験直しを兼ね、そのまま夕涼みを楽しみながら、商店街の雑貨屋に向かう。

「と、そういえば。鍵は掛けてきた?」

「か、かけてきた……よ?」

「鍵、持ってたっけ?」

「……えへへ」

「先ずは家に戻って、鍵を掛けてからな」

「ええ〜? アイス食べたい〜。アイスアイスアイス〜」

「駄目です。とりあえず、家に戻ったら、先ずはお風呂に入りなさい。あんなところで転んだりしたから、すっかり泥んこじゃないか」

「えぇ〜? やだー。めんどくさいものー」

「女の子なんだから、綺麗にしておかないと駄目でしょう」

「……男の子なら、ばっちくてもいいの?」

「屁理屈を云わない」

「へりくつとかじゃないものー!」

「家に戻ってお風呂入って、その後でアイスを買いに行くのと、アイスは無しなのと――どっちがいい?」

「う……おうちにもどる、アイス食べたい」

「よし」

 うぬう、と奇妙な声をあげる彼女の手を引き、自宅まで戻る。
 泥だらけの彼女を玄関に留め、雑巾で足の裏を拭いてやると、彼女はけらけらと身をよじって笑った。

「くすぐったいよう」

 眉をひそめながらも微笑む彼女の表情にドキリとさせられながらも、僕は努めて冷静を装う。

「はい、もう上がっていいよ」

「うゅ。ありがと、お兄ちゃんー」

「とりあえず、シャワー浴びて泥落としてきなさい。アイスはそれからね」

「アイス、ゆっきにえらばしてくれるー?」

「いいよ」

「じゃあ、バーゲンダ……」

「駄目」

「うわっ、えらばしてくれるっていったのにっ。うそつきだっ。ショックだよっ。がーんだよっ」

 彼女の云い掛けたバーゲンダーツというのは、その辺に売っている税別百円程度のアイスの半分ほどの量なのに、値段は三倍はするという高級アイスだ。
 本当にアイスクリームと呼ばれるものをパッケージングして売ろうと思えば、その程度の値段はどうしたって掛かってしまうそうで、僕たちが普段アイスクリームと呼んでいるものは食品分類上は氷菓と呼ばれる冷凍菓子の一種でしかなく、アイスクリームとは名乗れない紛い物なのだそうだ。
 とはいえ、僕はそれほど舌が肥えているワケでもなければ、嗜好品にそんな安っぽいブルジョワ感覚は求めないので、ああいう商品をして余り買いたいとは思えない。
 最も本当のところは、貧乏性なだけかもしれないのだけれど。

「あんなの買うくらいなら、普通に百円の安いアイス二つ買うほうがマシだよ」

「んじゃ二つー」

 勢い良く突き出された二本の指に苦笑を浮かべながら、それを押し止める。

「いいよ。でも、今日食べるのは一つだけだからね」

「あいあいー」

 彼女は空返事じみた声をあげ、ぱたぱたと素足の音を廊下に響かせて、バスルームへと向かう。
 だが、その様子を目で追っていた僕を見透かしたかのように、突然立ち止まり、こちらに視線を向けた。

「お兄ちゃんお兄ちゃん」

 内心穏やかでないものを抱えながらも、僕は「何?」と小さく返す。

「こんども、いっしょに入らないの? ダメ?」

 愛らしく小首を傾げる。
 一瞬、ぐびりと鳴った音を耳の奥で感じながら、僕は――

「――入りません」

 カラカラになった喉を鳴らし、そう答えた。

「ぷぅ。つまんないのー」

 しばしの沈黙の後、彼女は小さく頬を膨らませてそう云い捨てるように吐くと、バスルームへと消えた。
 小刻みに鳴るシャワーの音に、僕の心臓は大きく高鳴っていた。
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